仏教用語『差別』の意味
『差別』(さべつ)
仏教では「しゃべつ」と読む。
万物の本性は平等であるのに対して、それぞれは色々な違いをもっていることを意味していた。
仏教用語『差別』と時事をまじえた法雅のひとりごと
「一期一会の御縁に感謝」僧侶歴30年の現役和尚・法雅(ほうが)です。
昨日、興味深いニュースを見ました。
新型コロナウイルスの感染者や医療従事者がいわれのない差別や偏見をうけている問題について、日本新聞協会と日本民間放送連盟が共同声明を発表したというものです。
声明の内容は「ウイルスの特性を分かりやすく伝え、センセーショナルな報道にならないよう節度をもった取材と報道に努める」というものでした。
最近は「コロナ差別」という言葉があるそうです。
実際にコロナウイルスに感染し「陰性」となり治療がおわったにも関わらず、美容室や病院の利用を断られたり、インターネットで個人情報が流れていたりしているそうです。
また治療する側の医療従事者にいたっては、その子供というだけで保育所などの利用を断られたり、家族が心ない言葉を浴びせられる事例があちこちで起きているそうです。
「コロナ差別」聞くだけで心が寂しくなります。
生活のなかに生きる仏教用語『差別』
そこで、生活のなかに生きる仏教用語。
今回は『差別』です。
「差別」という言葉は仏教からきています。
もともとは「しゃべつ」と読みました。
万物の本性は平等であるのに対して、それぞれは色々な違いをもっていることを意味していました。
たとえば、人間はみんな同じ赤い血がながれ、命の尊さも同じだから人間はみんな平等です。
この平等をふまえた上で、一人ひとりの人間は体の大きさ、性格、肌の色がそれぞれ違いがある。
これが仏教で説く「差別」の意味です。
現代の差別は「ヘイト」・「排斥」と同じ
現在使っている差別という言葉は、平等を抜きにして分けへだて、正当な理由なく劣ったもの、違うものとしてあつかうことです。
これは差別ではなく「ヘイト」「排斥」です。
本来は平等と差別のバランスがあったのが、差別だけが一人歩きしたようなかたちになっています。
もちろん報道のあり方にも問題はあると思います。
朝から晩までコロナ関連のニュースや情報が流れている今、ずっとテレビをつけているお宅では知らないうちに過剰に洗脳されてしまっているのではないでしょうか。
コロナウイルスへの不安が、いつの間にか嫌悪感に変わり、感染者や医療従事者に対しても嫌悪に感じ、根拠のない排斥をしてしまっているのでないでしょうか。
今、世界中が分断を余儀なくされていますが、それは身体という物質的な分断であり、心や気持ちは分断をさせない努力が必要だと思います。
たとえば今さかんに行われているリモート飲み会でもよいでしょうし、SNSの活用でもよいでしょうし、これからもっと新しい技術やサービスがきっと出ることでしょう。
これらを活用して心と心のディスタンス(距離)を縮めていくことが社会のためにもなります。間違なく。(合掌)