仏教用語『畜生』の意味
『畜生』
畜生道に生まれた者のこと。
畜生はつねに恐怖心をかかえているゆえ、誰よりも強くなって恐怖から解放されようとするが、自分より力のあるものには依存して生きるため自立できない境遇。
六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)のひとつ。現在では「この畜生が」と、人を憎みののしってつかう言葉。
また、禽獣のように人に畜(やしな)われている生きもののことをいう。
仏教用語『畜生』と時事をまじえた法雅のひとりごと
「社畜」会社のため家畜のように労働する状態
「一期一会の御縁に感謝」僧侶歴30年の現役和尚・法雅(ほうが)です。
近年、「社畜」という言葉をあちこちで耳にしたり、記事で見るようになりました。
社畜という言葉は、1990年(平成2年)の流行語の1つにあげられており、30年が経過してすっかり現役世代になじんだ言葉になっているようです。
社畜という言葉は、とても悲しい意味をもっていますが、この言葉を考えた人はその意味を承知しつつ、家畜の読みをもじって社畜にしたと推察します。
今と比べて転職が容易ではなかった当時の日本企業は、社員が会社から抜けにくい環境でした。
そうなると会社から長時間労働を強いられたとしても、生活のため自分の意思を放棄して働く。まるで会社のため家畜のように労働する状態がうまれ、「社畜」という言葉ができたとされます。
もちろん、すべての会社がそうではありませんし、現在は全体的に少し改善されつつあるようです。
「家畜」生活のため家で飼う畜生。その歴史は長い
社畜という言葉は、「家畜」をよりどころとしていることは明らかですが、そもそも家畜とはどういう意味なのでしょうか。
それは、もともと野生の畜生(動物)を人間の生活の糧とするために、野生から家庭に飼い慣らされた畜生(動物)のことを家畜といいます。
家畜の歴史は古く、およそ1万年前から始まったとされています。
最初はほとんどが食用のための家畜であり、のちに乳用や労働用のための品種改良が進み、現代では畜産業の成立により数え切れない数の動物が飼われています。
家畜の定義は、「人間の管理下におかれた動物」。ですから畜産業の動物や家で飼っている犬や猫、実験用に飼われる動物をすべてふくめて「家畜」といってよいでしょう。
これら家畜も、野生の動物も、もとは同じ畜生(動物)です。
家で飼われようが、野生で生きようが畜生(動物)としての本質は変わりません。
では、その本質とは一体なんでしょうか。
じつは畜生という言葉は、もとは仏教由来の言葉。そこから繙(ひもと)いてみましょう。
生活のなかに生きる仏教用語『畜生』
そこで本日の生活のなかに生きる仏教用語。
今回は『畜生』です。
「畜生」という言葉は仏教からきています。畜生道に生まれた者のことです。
畜生はつねに恐怖心をかかえているゆえ、誰よりも強くなって恐怖から解放されようとしますが、自分より力のあるものには依存して生きるため自立できない境遇のことです。
六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)のひとつです。
現在では「この畜生が」と、人を憎みののしる言葉としてもつかわれています。
また、禽獣のように人に畜(やしな)われている生きもののことをいいます。
仏教でいう畜生とは、食うか食われるかという常に緊張した状態で生き、その緊張状態から抜けだすため強くなろうとしますが、現実は上には上がいるもの。自分より力があるものが現れれば服従し、場合によっては強いものに依存して生きていく。これが畜生の本質です。
家畜として生きているうちは人間に依存しますし、野生の動物もつねに緊張状態のなかで、多くは群れをつくって生きていきます。
これが畜生(動物)の本質だと仏教では説いています。
畜生から脱出せよ!私たちは人間なのだから
仏教で説く畜生とは、ただ動物のことを指しているのではありません。
せっかく人間に生まれておきながら、畜生のような心をもっていないか。動物のような生き方をしていないか。このことを気づかせるための教えでもあります。
あなたの身近に次のような人はいませんか?
- 部下にはえらそうな態度をとり、上司には媚(こ)びへつらっている人
- 誰かへの依存心が強く、自立できない人
- つねに何かに怯(おび)えて生きている人
- 今さえ楽しければそれでいいと思っている人
- 目先の利益と快楽ばかりを求めている人
このような人は畜生の心が強い人、畜生の生き方をしている人といえます。
自分では気づいていないけれども、まわりに悪影響を与えているものです。
こういう姿を反面教師として自らはしないように心がけましょう。
また自分のことを見つめなおして、こういう姿があると思ったら即改善していきましょう。
私たちは人間です。畜生から脱出して幸せになりましょう。(合掌)