仏教用語『過度』の意味
『過度』
生死(しょうじ)の迷いの世界(此岸)から、悟りの彼岸に渡ること。また、そうさせること。
厳しい修行を乗りこえた先に目的地(悟り)があることをさす。現在では、程度をこえた、並外れたという意味でつかわれる。
仏教用語『過度』と時事をまじえた法雅のひとりごと
小池東京都知事、「過度の疲労」で短期静養
「一期一会の御縁に感謝」僧侶歴30年の現役和尚・法雅(ほうが)です。
コロナ禍の知事たちは、相当なストレスがかかっているはずです。
通常の業務に加え、毎日報告される新規感染者数を意識し、増加してきたらその都度手を打っていく必要があります。
知事は各都道府県の保健衛生の責任者でもあるからです。
コロナ対応で大変なのに、オリンピックも間近ということで相当なストレスがかかったのでしょう。
6月22日、小池都知事が静養のため今週いっぱい公務を離れると発表されました。
理由は「過度の疲労」です。
政治家としてキャリアが長い小池都知事は、自身の健康管理には充分に気をつけていたはずです。
それでも現在、東京は感染者が増加傾向となり、加えてオリンピックの準備も最終段階。
さすがの小池都知事の疲労もピークに達したのでしょう。
今はゆっくり静養してほしいです。
疲労の原因となる5つのストレス
一昔前までは「疲労」のことをまったく考慮しない働き方が普通にありました。
ところが1980年代後半から「過労死」問題が大きく取り上げられ、国は世論から背中を押されるかたちで長時間労働、長時間残業を制限する法律を成立させました。
そして近年では、「働き方改革」と銘打って、より柔軟な働き方を模索している最中です。
今はコロナ禍ということもあり、テレワークが広がっています。
たしかに以前よりかは疲労を考慮される働き方になりましたが、疲労が無くなることとは別問題であり、疲労は生活している以上無くなるものではありません。
医学博士・倉恒弘彦氏によると、疲労の原因は5つのストレスから起きるとしています。
- 精神的なストレス(職場や家庭での人間関係や、仕事のプレッシャーなど)
- 身体的なストレス(長時間労働や、スポーツの過度なトレーニングなど)
- 物理的なストレス(紫外線や騒音、暑さ、寒さ、不快な湿度など)
- 科学的なストレス(住宅の建材に含まれる化学物質、野菜の残留農薬など)
- 生物学的なストレス(風邪やインフルエンザを引き起こすウィルス、細菌、寄生虫など)
これらのストレスによって免疫機能が落ち、神経やホルモンのバランスが崩れ、それが脳や身体に影響して「疲れた」と感じるようになります。
出典:『HITACHI』疲労とは何?
このように私たちの生活は、無意識なものもふくめ、いろいろなストレスを感じながら生活し、仕事をしています。
そう考えると、ストレスは無くなるものではないし、同時に疲労も無くなるものではありません。
無くならないのであれば、うまく付きあっていくしか方法はないようです。
睡眠はもちろん、グルメやショッピングを楽しんだり、好きな音楽を聴いたり、自分の気持ちを話したり。このようにして疲労をコントロールしていきましょう。
今の自分の働き方は、どれくらい疲労が溜まっているか知りたい方は、『働く人の疲労蓄積度セルフチェック(働く人用)』を1度お試しください。
簡単な20の質問を答えるだけで測定できるので、とても簡単です。
まずは自分の疲労度を知ることが大事ですね。
今回は、小池都知事が『過度の疲労』により静養することから疲労についてお話ししました。
ところで「過度」という言葉、意外にも仏教由来の言葉なのです。
生活のなかに生きる仏教用語『過度』
そこで本日の生活のなかに生きる仏教用語。
今回は『過度』です。
「過度」という言葉は仏教からきています。
生死(しょうじ)の迷いの世界(此岸)から、悟りの彼岸に渡ること。また、そうさせることを意味しています。
厳しい修行を乗りこえた先に目的地(悟り)があることをさします。
現在では、程度をこえた、並外れたという意味でつかわれる。
仏教でいう「度」の意味は、生死(しょうじ)の迷いの海を越えて、悟りの彼岸に渡ること。つまり修行の到達「悟りを開くこと」を意味しています。
ですから過度は「度を過ぎる(悟りを開いた)」、もしくは「度を過ぎるようにする(悟りを開くよう精進する)」という意味です。
一方、現在つかわれている過度の「度」は程度の度です。
程度とは「適当と考えられる度合い」の意味ですから、適当を越えたものは、まさに度を過ぎた「過度」になります。
このように同じ過度でも、仏教用語と日常用語とではまったく意味がちがいます。
過度の疲労には静養を。悟りを開くには過度の修行を
一生のなかでは、ここ一番に頑張らなければいけない時があります。
たとえば受験とか、何かを開発する時とかです。
寝る間を惜しんで努力したその暁には、次の段階へとステップアップした自分がいます。
仏教用語の過度はそれに似ています。
ただ、無茶な努力は長続きしないのも現実です。
人間は生身の身体ですから、過度の疲労がたまったら静養も必要です。
そう、静養も仕事のうちです。小池都知事。(合掌)