仏教用語『実際』実際問題、私たちはまだ知らないことが多い

仏教用語『実際』の意味

『実際』(じっさい)

古代インド文字(サンスクリット)のブータ・コーティの漢訳。
ブータは「ものごと」、コーティは「極み」から「ものごとの極み」の意味。

現在では意味がすこし軽くなり、現実の有り様、事実の意味でつかわれる。

仏教用語『実際』と時事をまじえた法雅のひとりごと

地動説と天動説のはなし

お疲れ様です。法雅です。

はじめに、ものごとの真実を見極めるのはむずかしい話しの一例を紹介します。

地動説と天動説

地動説と天動説という言葉をご存じでしょうか?

地動説というのは太陽を中心に地球や火星などの惑星も回っているという考え方で、今や誰もが知っている常識です。

一方、天動説というのは宇宙の中心が地球であって、太陽や火星などの惑星が地球を軸として回っているという考え方で、現在では誰も信じないでしょう。

しかし、つい近代まで天動説が常識だったのです。

天動説をとなえたプトレマイオス

天動説は紀元2世紀に、エジプトのプトレマイオスによって体系づけられました。
たしかに私たちが中心となって物事を見ますと、太陽が東からのぼって西へ沈むという、まるで太陽が私たちを回っているように見えますから、こういう考え方があっても不思議ではありません。

こういう考え方が実に1,400年もの間、世間の常識だったのです。

この考え方に異論をはさんだのは16世紀になってから、最初にコペルニクスが天動説を否定する書き物を出しました。

地動説をとなえたガリレオ

そして17世紀にガリレオ・ガリレイによって地動説が正しいとする考えを広く唱えました。

しかし、ガリレオが唱えた地動説は今までの常識を覆すことですから反発も相当起きました。
とくにキリスト教会は、ガリレオの地動説は神への冒涜(ぼうとく)とされ、ガリレオは宗教裁判にかけられてしまいます。

結局ガリレオは、火あぶりの刑を恐れるあまり、地動説を止めざるをえませんでした。

真実を知ることは難しいもの

その後科学は発達し、近代になって地動説が正しいことが証明されます。
1992年、ガリレオが受けた宗教裁判はあやまりだったとローマ法王が認めましたが、ガリレオの死後350年たってからのことです。

このように人類の歴史のなかで、地動説が常識になったのは、まだごく最近のことです。

それだけ、ものごとの真実を見極めるのはむずかしいともいえます。

私たちは、事実を知りたいときに「実際どうなの?」と聞きます。この実際という言葉、じつは仏教からきているのです。

生活のなかに生きる仏教用語『実際』

そこで本日の生活のなかに生きる仏教用語。
今回は『実際』です。

「実際」という言葉は仏教からきています。
もとは古代インド文字(サンスクリット)のブータ・コーティを漢字に訳したものです。

ブータは「ものごと」、コーティは「極み」から、「ものごとの極み」「究極の根拠」「真如」「法性(ほっしょう)」といった重要な意味をもちます。

それが現在では意味がすこし軽くなり、現実の有り様、事実の意味で使われています。

実際という言葉は、とても重たい言葉だったんですね。

実際問題、私たちはまだ知らないことが多い

たしかに、仏様が説かれた教えの極み、究極というのは、私たちでは理解できないものですし、言葉にもできません。

その理由を例えていえば、仏様は100の知識をもっているとすれば、私たちは3くらい。
そうすると、97のことは知らないし、まだ聞いたこともありません。

97のうち1を知っている人がいたとしても、正しいかどうか判断もできません。

ちょうど、さきほどの地動説と天動説の話しと同じです。

ものごとの真理というのは、必ずしも人々の多くが受け入れているほうが真理だとか、歴史が長いほうが真理だとか、あまり関係がないことを、この話しでは教えています。

心の師となるとも心を師とせざれ

『六波羅蜜経』のなかで「心の師となるとも心を師とせざれ」と説かれています。

私たちの心は非常に弱く、すぐに流されてしまいます。

「心の師となる」とは、仏様の教えを軸に導かれるようにすることです。
ところが「心を師とする」と私たちの心を軸にすることですから、迷ってみたり、ズルをしたり、煩悩のままに生きてしまいます。

ですから、そういう生き方を戒(いまし)めて、『実際』、真実の極みである仏様の教えとおりの生き方をしなさいと教えています。

そうすると『実際』真実の極みに近づけます。

実際アイキャッチ画像
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