仏教用語『邪魔』の意味
『邪魔』(じゃま)
古代インド文字(サンスクリット)マーラーの音訳が魔。
邪魔は仏道修行をさまたげる邪(よこしま)な悪魔の意味。現在でも、妨(さまた)げや障害の意味をもつ。
仏教用語『邪魔』と時事をまじえた法雅のひとりごと
馬をつれた親子の話し
「一期一会の御縁に感謝」僧侶歴30年の現役和尚・法雅(ほうが)です。
今回はたとえ話を紹介し、話しに入っていきます。
あるところに人の良い父と子供がいました。
ある日、町に行こうと父は子供を馬の背中にのせて出かけていきました。
町に行く道すがら、いろいろな人たちに行き会います。
そうしますと歩いているうちに、こういうささやき声が聞こえてきました。
「お父さんを歩かせて手綱(たづな)を引っ張らしているとは、なんて親不孝な子供なんでしょう」
その言葉を聞いた親子は、何となく悪いことをしたかのような気持ちになり、今度は父が馬の背中にのり、子供が手綱を持つことにしました。
そうしましたら今度はこういうささやき声が耳に入ってきました。
「子供を歩かせて手綱を引っ張らしているとは、なんて無慈悲な親なんでしょう」
その言葉を聞いてしまった親子は、また何となくばつが悪くなってしまい、今度は2人で馬にのって行くことにしました。
すると今度は「こんな小さな馬に2人ものって、馬がかわいそう」と言われてしまいました。
困りはてた親子は馬をおり、2人で手綱を引っ張って歩くことにしました。
もう何も言われないだろうと内心思っていましたら、今度はこういう言葉が聞こえてきました。
「誰ものらないのなら、馬を連れてくる必要がないじゃないか」
それを聞いた親子はなすすべが無くなってしまいました。
さぁ、この親子は結局どうなったのか。
やがてその親子の姿を見た旅人はビックリしました。
親子が馬を背負って歩いていたからです。
生きていくのに邪魔なものは「わりと多い」
このように笑い話のような話しです。
この話しが教えているものは何でしょう。
それは自分に確固たる信念がなければ、簡単にこの世の中を乗りこえれない。
それどころか、いつの間にか世間の風に流されてしまい、親子が馬を背負ったような、本来目指すべき姿とはまったく違うものになってしまう、ということです。
それだけ私たちは世間という迷いの世界に生活しているのです。
せっかく生きているのに、あちこちからヤジや怨嫉、誹謗中傷がきこえてくる社会です。
また情報がありすぎて、頭のなかで処理しきれないことも多々あります。
こういうことが生きていくのに邪魔に思えてくるのは法雅だけではないと思います。
邪魔という言葉はよく使いますが、もとは仏教用語だと知っているのは少ないと思います。
生活のなかに生きる仏教用語『邪魔』
そこで本日の生活のなかに生きる仏教用語。
今回は『邪魔』です。
「邪魔」という言葉は仏教からきています。
古代インド文字(サンスクリット)マーラーの音訳が「魔」です。
邪魔は仏道修行をさまたげる邪(よこしま)な悪魔の意味です。
現在でも、妨(さまた)げや障害の意味をもっています。
お釈迦様は悟りを開く直前に、降魔(魔を降伏させた)をしたとされます。
つまり悟りを開くのを邪魔するため、魔は美女をおくって誘惑したり、暴力で脅したりしましたが、すべては自分の煩悩からでた現象であることを見抜き、魔を退けました。
このことから2つのことがいえます。
①邪魔の解決は自分の心ひとつ
邪魔に対して必要なのは、邪魔を排除する力ではなく、邪魔の本質を見極める力です。
ほとんどの邪魔の解決は自分の心ひとつでできます。
たとえばテレビから情報が溢れている現在、ずっと見ていては頭が処理しきれなくなります。
たしかに必要な情報かもしれませんが、あとのニュースでまとめてみようと思うだけでテレビを切ることができます。
またSNSでの誹謗中傷に心が傷ついたとしても、なんで相手は分かってくれないんだと思う気持ちを捨ててください。
相手を10年説得しても無意味です。(異常なケースは警察に相談です)
それよりか、もっと自分磨きに勤(いそ)しんだほうが自分のためです。
このようにすべての邪魔は自分の心の持ち方で解決できるのです。
②今も昔も「好事魔多し」
お釈迦様は大きな邪魔を克服することで悟りを開きました。
同じように邪魔が大きければ大きいほど、克服したときの自分の成長が楽しみになるはずです。
昔から「好事魔多し」ともいいます。
うまくいきそうなことには、とかく邪魔が入りやすいことは今も昔も同じです。
どうでしょうか。
邪魔の見方が変わったのではないでしょうか。
これからの生き方の参考にされるとうれしいです。