仏教用語『機嫌』の意味
『機嫌』(きげん)
もともとは人々がそしり嫌い、不愉快に思うという意味。だから「嫌」の字が入っている。
現在の意味は、世間からそしりを受けないように自ら慎んで相手の出方を待つ意味となり、相手の気持ちや様子を意味する言葉に変わった。
仏教用語『機嫌』と時事をまじえた法雅のひとりごと
「一期一会の御縁に感謝」僧侶歴30年の現役和尚・法雅(ほうが)です。
ゴールデンウィークが終わり、いつもの日常と思いきや、いまも新型コロナウイルス感染防止のための対応が必要ですね。本当にお疲れ様です。
今でも生活の基本はステイホーム。三密をさける。手洗い・除菌を心がけるです。
でも、法雅もふくめて人はたまには外に出て息抜きをしたいもの。
たまには友人と飲み会を開きたいと思うのが人情です。
そういう気持ちのしわ寄せでしょうか。
最近は「自粛警察」と呼ばれる行為があることをテレビの報道で聞いて驚きました。
自粛生活が長引くなか、感染した人をおとしめたり、繁華街を訪れた人を非難したりする書き込みがインターネット上で相次いでいるそうです。
そればかりか、夜に開店している店に投石するという暴力までもあるといいます。
これでは、取り締まる意味の警察ではなく、かえって世間からそしりを受けてしまいます。
生活のなかに生きる仏教用語『機嫌』
そこで、生活のなかに生きる仏教のことば。今回は『機嫌(きげん)』です。
「機嫌」という言葉は仏教からきています。もともとは人々がそしり嫌い、不愉快に思うという意味です。
だから「嫌」の字が入っているんですね。
自粛警察のような行為はかえって「機嫌」な行為といえます。
現在の意味は、世間からそしりを受けないように自ら慎んで相手の出方を待つ意味となり、相手の気持ちや様子を意味する言葉に変わりました。
行き過ぎた行為は結局は世間からも非難されます。世間から非難されないよう自ら慎むこと。法雅も気をつけたいと思います。
仏教の教えでは、人の心には良い心と悪い心、誰もがすべて持っていると説いています。
良い心しかない人も、悪い心しかない人もこの世には存在しないということです。
問題は良い心のほうが大きいのか。それとも悪い心のほうが大きいのか。それだけです。
ということは差別をする心も誰もが持っていることになります。人によってその心が大きいか小さいかです。
法雅は人よりも差別の心は大きいと思います。
この時期にパチンコ店に並んでいる人をみると「は?」っとなります。
つねに自分の心との戦いです。
「ご機嫌いかが」と声かけができる気持ちのゆとりをもとう
いつ終わるか分からないウイルスとのたたかいの最中、どうしても人の心は不安定になりがちです。
差別の心も大きくなりがちですが、こういう時こそ心をコントロールしていきましょう。
だれに対しても「ご機嫌いかがですか」と声かけができる世の中。これがゴールではないでしょうか。
こういう世の中になれば、差別も自粛警察もなくなるのではないでしょうか。
法雅も努力していきたいと思います。